2016年8月31日水曜日

セブンイレブンがIT教室


アデ・イルマヤンティさんはこれまで、地元のセブンイレブンについて、10代のたまり場としかみていなかった。

 その後、彼女やその他の母親たち数十人は週3回、夜間にここを訪れ始めた。HTML、ジャバスクリプト、その他のコーディングスキルを学習するためで、インドネシアのスタートアップ(新興企業)ブームに乗ることを目指している。インドネシアはジャワコーヒーなども有名だが、別の「JAVA(ジャワ)」も売ることになる。


 「アルバイトしてお金を稼ぎたかった」とイルマヤンティさん。彼女は3人の子供をもつ43歳の母親だ。コーディング(コンピューターソフト、アプリ、ウェブサイトを動かすアーキテクチャ)技術を学習することによって、「遠隔でウェブサイトのメンテナンスができるから、自宅にいながらパートタイムで働ける」という。

 開発途上国では何百万人もの人々がコーディングを学習しており、中産階級に仲間入りする収入の手段にしようとしている。インドネシアでは、そのニーズは高く、コーディングを教える家内工業的な教育ビジネスが誕生している。標的は主として若者だ。

 しかし、セブンイレブンの学習プログラムが標的にするのは、若者ではなく、母親という新たな人口層だ。

 このプログラムの開発を手助けしたのがインドネシア・セブンイレブンのフランチャイジー(営業権を与えられた加盟店企業)のディレクター、イザク・ジェニー氏だ。同氏は、インドネシアのハイテク技術者不足と、未開拓の労働資源のマッチングに乗り出した。同氏は政府機関を説得して、「コーディング・マム(母親)」というプログラムの具体化を支援した。ジェニー氏はその後、インストラクターと契約し、首都ジャカルタ市内と郊外でセブンイレブンの店舗を選んで、母親たちが学ぶ教室にした。ジャバスクリプトという、別の「ジャバ(ジャワ)」を売るのだ。

 セリアル・アントレプレナー(連続起業家)でもあるジェニー氏は「彼らの中にはトップの大学を卒業した人もいる。ある人は(米カリフォルニア大学)バークレー校に通っていた」と述べた。しかし、「彼女らは自宅で子供といるだけということが多い。それは悪いことではないが、もっとカネが必要な人が少なくないかもしれない。そこで彼女らは自宅にいながら仕事ができる、とわれわれは考えた」という。


 レッスンが行われるセブンイレブン店舗の2階のオフィスは簡素で、ハイテク感が漂うカリフォルニア州のアップル本社とはかけ離れている。だが、インドネシアのセブンイレブンでコーディングを学ぶというのは、思うほど奇妙でないかもしれない。他国のコンビニと違い、インドネシアのコンビニは近年、コミュニティーのハブとして台頭してきたからだ。

 家族はコンビニに長居し、インスタントヌードルやホットドッグを食べることがしばしばだ。ティーンエイジャーは夜遅くまでたむろし、外の椅子に腰掛けたり、コーヒーを飲んだり、無料のWi-Fiを使ったりしている。

 そこにコーディング・マムができた。

 このプログラムの支援者たちは、これをより多くのセブンイレブン店舗に広めようとしている。そうすることで、プログラミングできる人材の宝庫として確立しているインド、ベトナムやフィリピンにインドネシアが追いつけるようになることを期待しているのだ。セブンイレブンと協力する政府機関の代表を務めるトリアワン・ムナフ氏によると、インドネシアはハイテク・クリエーティブ業界の人数を現在の1240万人から2019年までに60万人増やすことを目指しているという。


 インドネシアにコーダー(コーディングができる人)とハイテクエンジニアの需要があることは明らかだ。

 例えば、相乗りサービスのGo-Jek社は今年、インドのソフトウエア開発会社を2社買収した。国際的な人材を確保するためだった。同社のライバルであるウーバー・テクノロジーズは米国でコーディングスキルのあるインドネシア人を探し、インドネシアに連れて帰ることを目指している。

 ムナフ氏は「われわれは現在、コーダーを必要としているが、将来はもっと必要になるだろう。自国の人材でニーズを埋め、インドから人を連れてこなくてもうよくなるようにしたい」と話す。

 マイクロソフトが2015年に実施した調査によると、インドネシアの高校生と大学生の90%超はコーディングを学びたいと考えている。だが、それを教える学校はほとんどないため、コーディングを教える学校、いわば家内工業的な教育ビジネスが盛んになっている。

インドネシアのネットとスマホ人口 ENLARGE
インドネシアのネットとスマホ人口
 今夏、ジャカルタにある人気のコーディング学校である「コーディング・インドネシア」に入学した人の数は、昨年比で2倍近くに増えたという。マネジャーのワヒュディ氏(多くのインドネシア人がそうであるように、姓と名ではなく、一つの名前だけを使っている)が明らかにした。

 多くのハイテク企業は、中国とインドの次に成長する可能性のある国としてインドネシアに注目する。調査会社のイーマーケターによると、東南アジア最大の経済国である同国は今年、インターネット利用者が1億人に達するという節目を迎えると予測されている。うち半数以上はスマートフォンを通じた利用だ。政府当局者は、同国の電子商取引の規模が20年までに10倍拡大し、1300億ドル(約13兆3000億円)に達すると予想する。

 IT(情報技術)関連の従業員の給与は比較的良い。求職サイトのジョブプラネットの最近の調査によると、インドネシアのIT従業員の平均月給は約302ドルと、同国の最低賃金である144ドルを大幅に上回る。

 コーディング・マムの卒業生たちは、既にスキルを仕事に生かしている。

 冒頭のイルマヤンティさんは、インターネットベースのサービスプロバイダーを共同で設立した。別の卒業生は、自ら立ち上げた新しいウェブサイトを通じ、コーランからの引用を刺しゅうして額に収めたものを販売する計画だ。

 これらの母親たちは家庭でも努力している。イルマヤンティさんは自宅でコーディングの授業の見直しをしていると、子どもたちに何をやっているのかと聞かれた。そのとき、彼女は「お母さんにも宿題があるの。あなたたちのようにね」と答えた。

情報元:Wall Street Journal

2016年8月29日月曜日

ジャカルタ在住GOさんのおすすめ食事スポット


PLATARAN @ Dharmawangsa

庭付きの一軒家のインドネシア料理レストランです。とってもおしゃれで、美味しくて、雰囲気がとてもいいにもかかわらず、それほど値段は高くありません。 

しかも、インドネシア料理レストランには珍しく、ビール、ワイン、カクテルとアルコールもそろっています。 日本からのお客様をお連れするのに、バッチリのお店です。




住所:JL. Dharmawangsa No.6 - Jakarta Selatan
            地図


情報元:トラべロコ

世界最高齢の男性が発見、年齢は145歳


インドネシアで145歳の男性が生きていることが27日、現地の報道により明らかとなった。

この男性は、Mbah Gotho(バ・ゴトー)という老人で、出生証明書の記録によると生年月日は、1870年12月31日生まれの現在、145歳だとしている。




Mbah Gothoさんは現在、高齢のため、寝たきりの状態となっており、食事なども流動食しか口にできな状況にある。

これまで判っている範囲での世界最高齢の記録の持ち主は、122歳で死亡したフランス人女性のJeanne-Louise Calment(ジャンヌ・カルマン)さんが最高となっていた。

そのため、このインドネシアの男性の年齢が本当に145歳だとした場合、これまでの最高記録を23歳も上回ることとなる。



情報元:Business Newsline

2016年8月26日金曜日

サラリーマンからインドネシアの農家へ

こんにちは!

公子(こうこ)です。

私は、インドネシアの首都ジャカルタから東へ100km離れた、西ジャワの田んぼからお届けしています。

29歳の時に、米作りをしにインドネシアへやってきました。


▶農家のみなさんと一緒に


農業大国、インドネシア

ここインドネシアの人口は2億5000万人、国土は日本の5倍です。

毎年、シンガポールの総人口とほぼ同じ500万人の子どもが生まれています。

インドネシアの基幹産業は農業。

稲作が中心です。

この国の主食であるお米の消費量は日本の6倍にものぼるのです。


▶日本人にとっても懐かしい光景が広がるインドネシア

インドネシアは赤道直下で日照時間が12時間、年間の気候も雨期と乾期だけで二期作が可能です。

地域を変えればサイクルもずらせるので、365日田植えができるのです。

国内各地を回って毎日植え付けする超人も生まれる可能性がある!(そんな人を育ててみたいですね)。

「豊かさ」を考えたのがきっかけ

さて、実は私、日本で農業をしたことがありません。もともとは広告会社に勤めるサラリーマンでした。

広告営業でホテルや旅館を回ったり、広告代理店で商業施設の販促をしたり、イベントを企画運営したりしていました。

地域がより良くなるように、と感性や生活を豊かにする「プラスアルファ」をする仕事です。

しかし、東日本大震災が発生した同日にヘルニアを発症。

福岡の病院で手術をしました。

その後、仕事もやめて丁寧に生きることを心がけていた時、「豊かさって何?」ということを考えるワークショップに参加したのです。


▶「豊かさ」。考えたこと、ありますか

モノがあることや幸せなこと、人のつながりがあること。

さまざまな意見が出る中、私は「寝て、食べて、歩いて。人間がちゃんと生きられることじゃないか」と、自分なりに豊かさに気づきました。



「農業をしたい!」

27歳の時、私は長野・小布施町という人口1万人の町に住んでいました。

それまで暮らしていた福岡、東京、名古屋という大都市での暮らしには虚無感があったのですが、ここでは農業が生活の中にあり、作物に合わせて四季を感じることができました。

農家さんたちが作った桃やりんごの収穫を手伝い、それを町外で出張販売をすると、作り手の声や想いが買い手に伝わって、驚くように売れることも体験しました。

少しずつ「私も農業をしたい」という想いが強くなりました。


▶インドネシアで米事業をする仲間たちとともに

しかし、供給が足りている日本での就農が腑に落ちず、なかなか一歩を踏み出せなかった時、インドネシアでお米の栽培・調査をしている長野県の米農家さんと元サラリーマンのにんにく農家さんに出会い、同行したのが、初めてのインドネシア訪問でした。

作っても作っても需要があるインドネシア

インドネシアのお米は、細長い「長粒米」が主流なのですが、短粒米の日本米も旨味や甘味があって人気が出始めています。

さらに日本では余るほどの日本米も、インドネシアでは作っても作っても足りない状態。

追加オーダーが常に発生しています。


▶実り豊かな水田

しかし、この国では生産管理がとても大変。

見ていないとすぐにお金がなくなったり、スタッフが仕事に来なかったり、栽培方法が安定しなかったり。

生産・販売管理のためにまずは数カ月の滞在を、と思ったのがいつの間にか2年半になってしまいました。

日本だと年1回の生産もインドネシアでは倍速なので、経験値も早くアップします。

田舎生活にも慣れ、食を支えているという自負も生まれ、「四歩進んで三歩下がり」ながらも、努力が少しずつ実を結びつつあると感じます。

そして間もなく、インドネシアで農業経営を行う「農業法人」が立ち上がろうとしています。

情報元:Huffington Post

2016年8月19日金曜日

先住民が大切に保存する祖先のミイラ


インドネシア・パプア(Papua)州の高原地帯に位置する町、ワメナ(Wamena)の先住民ダニ(Dani)族の族長が大切そうに抱きかかえるのは、およそ250年前に同地を支配していた族長のミイラだ。

 ワメナには遺体をミイラにする習慣はもう残されていないが、ダニ族は今でも多くのミイラを大切に保存することで、先祖への高い尊敬を表している。ミイラにされたのは部族の重要人物のみで、彼らは動物の油を用い、煙でいぶすことによって遺体に防腐処理を施していた。現在ではダニ族のミイラを一目見ようと、世界中から多くの観光客がワメナを訪れるという。

情報元:AFP News

2016年8月18日木曜日

エネルギー相を解任 二重国籍の疑いで


インドネシアのプラティクノ国家官房長官は15日、ジョコ大統領がタハル・エネルギー鉱物資源相を解任したと発表した。

タハル氏がインドネシアと米国との二重国籍を持っていると報じられていたことに対処する措置という。インドネシアでは成人の二重国籍保持は禁じられている。

タハル氏は7月の内閣改造で同職に就任したばかりで、3週間足らずでの解任となった。

ルフット・パンジャイタン調整相が今後、暫定的にエネルギー鉱物資源相を兼任する。



情報元:ロイター

2016年8月15日月曜日

消費関連企業、需要回復受け投資拡大


インドネシアの消費関連企業が投資拡大や新商品投入を加速させている。景気や与信環境の改善で需要が急回復しているため。

個人消費は概ねインドネシアの国内総生産(GDP)の半分強を占め、景気を判断する主要な指標となっている。中央銀行が8日発表した7月の消費者信頼感指数は2015年3月以来の高水準だった。

複合企業アストラ・インターナショナルのPrijono Sugiarto取締役社長は先週、記者団に対して「国民の購買力は回復している。ゆっくりとではあるが、確実に上向いている」と述べた。

アストラの上半期決算は、金融サービス部門や鉱業機器部門の不調が響き、前年比12%の減益だった。しかしSugiarto氏によると、下半期には業績てこ入れのため自動車と二輪車の製造ラインを新たに立ち上げる予定だという。

インドネシアは経済成長に弾みが付きつつあるほか、中銀が今月から不動産融資規制を緩和したことなどが消費を下支えしている。



先週発表された第2・四半期のGDP成長率は前年比5.18%と予想を上回り、2年半ぶりの高い伸びを記録。6年ぶりの弱さだった昨年から回復を見せた。

企業も年内の見通しについて強気に転じ始めている。ノムラが先週発表した大手企業25社を対象にした調査結果によると、回答した企業の89.5%が経営環境は今後1年以内に改善すると予想した。

ノムラは「政府の改革への取り組みは正しい方向に進んでいるとの受け止め方が広がりつつある」としている。

大手菓子メーカーのマヨラ・インダの幹部はロイターに対して、今年の売上高目標を20%引き上げて17兆5000億ルピア(13億ドル)にすると明らかにした。

ルピア相場の安定で輸入物価が下がり、原材料コストが低下したことが追い風になっているという。

インフラ建設や租税特赦などインドネシアの経済政策への信頼感が高まったため、ルピアの対ドル相場は年初からおよそ5%上昇した。

インドフード・サクセス・マクムール傘下の消費財部門、インドフード・CBP・サクセス・マクムール(ICBP)の幹部によると、同社は上半期に売上高が急増した影響で牛乳の生産能力が不足している。今後は製造ラインを増設し、ポテトチップとインスタントラーメンで新商品を発売する計画だという。

情報元:Diamond Online

2016年8月10日水曜日

「インドネシアと日本をつなぐアイコンに」加藤ひろあき


インドネシア語講師・翻訳家であり、現在はインドネシアを中心に音楽活動を行う加藤ひろあきさん。

2015年からは「よしもとクリエイティブ・エージェンシー」所属のアーティストとなり、現地でのテレビ出演を果たすなど活動の幅をますます広げています。

「在学中は劣等生だった」という彼は、大学3年生の時に経験した留学をきっかけに、「インドネシア語と音楽をライフワークにする」という夢に出会います。

それから約10年……夢を追い続ける彼に訪れたのは、試練に次ぐ試練でした。


インドネシア語と音楽でご飯を食べる、と決めたから


インドネシアへの留学を決めた理由は何だったのですか?

実は、学生のとき留学を決めたのは「悔しかったから」だったんです。インドネシア語を専攻していたのですが、周りに比べて満足に話せない自分が悔しくて、その状況を変えるためには現地に行くしかないと思ったことがきっかけでした。

今振り返ってみて、その決断をどう思いますか?

あの決断がなかったら、僕の人生は全く違ったものになっていたでしょうね。

現地で暮らし始めて3ヶ月が経ったころ、ジャワ島大地震が発生し被災したんです。

避難や一時帰国の提案はありましたが、私は残って救援物資を届ける活動をすることを選択しました。

その頃、積み下ろしの時間や被害状況を確認する合間に空き時間が結構あって、一緒にいた仲間と「音楽でもやるか」と言って始めたものが、今やっていることの原点のような気がします。

当時は活動という実感は全くなくて、みんなで歌った一瞬が彼らの未来に少しでも繋がる時間だったらいいなと思っていました。

「音楽によって何かをポジティブな方向に変えられる」という生(なま)の体験ができたことは大きかったですね。

日本に帰国されてからは、どんな風に過ごしていたのですか?

日本に帰ってきてからは、「これから自分は何で飯を食い、何を成し遂げていきたいのか」ということをすごく考えました。

インドネシアでの被災経験って「今ある当たり前が当たり前じゃない」ことを体感した出来事だったんですよ。

実際友達も亡くなりましたし、昨日行ったカフェが次の日にはガレキになっているなんてこともありました。

だから自分は、やりたいことをやらないと後悔するだろうなと。

そうして絞ったのは「音楽、インドネシア語、サッカー」この3つ。

サッカーは仕事になりそうにないから趣味でやるとして、「音楽とインドネシア語でご飯を食べる」と決めたのが大学4年生の時。

そこから、夢を追いかける日々が始まりました。


すべての挫折を「糧」にして、ストレートに進まないところが自分らしい


卒業後の進路はどうされたのでしょうか

インドネシア語をさらに深めるために大学院に進学しました。

2010年に大学院を卒業した後は、インドネシア語翻訳・通訳のフリーランスとして社会に出ました。

でもその後も挫折ばかりでしたね。

現実として、社会に出たての若者に出来る仕事なんてほぼないんですよ。

これまでのつながりを頼って知り合いにメールをすれば返事はくるんです、「何かあれば連絡させていただきます」と。

社会人ならお分かりでしょうけど「なんかあれば」って「何もない」と同じことじゃないですか。

その状態が2、3ヶ月続いていってやっと、自分仕事ないなって気づいたんです。

結構世の中を舐めてたんですよね、僕。

流れが変わってきたのが、2011年の夏でした。

大学院時代の担当教員だったインドネシア語の師匠から電話があって、桜美林大学でのインドネシア語講師をするチャンスが巡ってきたんです。

本当に運が良かったと思います。

大学講師になったことで大きく変わったのは、信用が生まれたこと。

通訳や翻訳の仕事が少しずつ入るようになっていきました。

桜美林大学での講師が終わるタイミングで、今度は上智大学の先生と知り合うことができ、上智大学で3年間の任期付きでインドネシア語の授業を持つことになったんです。

捨てる神あれば拾う神あり、です(笑)。



インドネシアへ拠点を移そうと思われたのは、いつ頃だったのですか?


上智大学で講師を始めて2年ほど経った、2013年です。

講師の仕事は居心地が良く、これまで以上に多方面に人脈が広がりましたし、大きな規模のイベントや大使館から要請があった案件も任せてもらえるようになりました。

その一方で僕の音楽活動は鳴かず飛ばず、インドネシアフェスティバルで歌わせてもらったり、MCをさせてもらったりはしていたものの、もっともっと大きくなりたいと試行錯誤していた時期でもありました。

そんな時、インドネシア人の友人ヨフィーが僕にこう言ったんです。

「お前はインドネシアに来た方がもっと活躍できると思うよ」と。

そこから、ジャカルタに住むという選択もあるんじゃないかと思い始めました。

2013年度も終わる頃、授業中に教卓から学生たちの姿を眺めていたら「本当に輝きたい場所ってここじゃないな」って直感で思ったんです。

まだ任期は1年残っていましたが大学講師を辞め、2014年4月にジャカルタに移ってきました。



インドネシアと日本を繋ぐアイコンでありたい


インドネシアでのますますの活躍が注目されていますが、お仕事はどんな風に決まっていったのですか?

到着してすぐ、ヨフィーやこれまで知り合った現地アーティストの人脈でテレビ番組に出演し、歌も披露することができました。

「自分の居場所はやっぱりここだった」と確信したものつかの間、その番組が打ち切りになり、また無職に(笑)。

しばらくして運良く旅番組のホストのオーディションに受かり、その旅番組と音楽活動を細々と続けていました。

吉本さんと一緒に仕事をさせてもらうようになったのは、僕がインドネシア語に翻訳した、吉本興業の芸人・COWCOWさんの「あたりまえ体操」が爆発的にヒットしたこと。

イベントやラジオで通訳としてお手伝いをするうちに、本格的にタレント・アーティストとして活動するようになりました。

おかげさまで、これまでより大きいスケールで活動ができるようになったので、あとは自分の能力をどれだけ発揮できるかというところでしょうね。

これからも、インドネシアを拠点に活動されるのですか?

はい、僕が活動する上で大切にしているのは「ローカライズ」というキーワードなんですが、インドネシアという国に根づいたコンテンツを生み出していきたいと思っているんです。

僕の売りはやはりインドネシア語が話せることであり、インドネシア語と日本語で音楽ができること。

その強みを活かしながら、加藤ひろあきというコンテンツをどうやって売っていくのかということが今後の大きなテーマになると思います。

今後の目標を教えてください

新たに挑戦してみたいことは、山ほどあります。

CDを作り、テレビ出演を増やし、CMや映画なども積極的にチャレンジしたい。

それを通じてアーティストとして人気が出ることももちろんですが、自分自身がインドネシアと日本をつなぐアイコンになりたいという思いがあります。

今でこそ親日の国と言われるインドネシアですが、歴史をたどれば日本がインドネシアを侵略していた過去がある。

昔一度だけ、おじいさんに「お前らのこと許さないからな」って面と向かって言われたことがあるんですけど、今は関係が良好でも、これから先何が起こるかは誰にも分かりません。

そんな可能性もある中で、僕自身がその関係性の「ハブ」になれたらいいなって思うんです。

加藤ひろあきって、日本人だけどインドネシア語を喋って、インドネシアに住んでいて、インドネシアのもの食って暮らしてるんだよ。

あいついいヤツだよね、憎めないよねっていう存在がいることがすごく大切だと思っています。

そうすれば、ネガティブな感情や現象も少しは和らぐのではと思うからです。

自分が愛した両国の関係がこれからも少しでもいい状態であれるように貢献したい。

それが、自分がお世話になった両国への自分なりの恩返しですね。

ただ、それって僕みたいな職業だからできることなのかもしれません。

いわゆるビジネスマンだと、お金の問題もありますし、なかなかできないじゃないですか。

今は、日本のコンテンツを輸出する政府のバックアップもありますから、その力も借りながら、「日本とインドネシアの架け橋のアイコンになる」という僕のビジョンを実現していきたいと思っています



情報元:HUFF POST

2016年8月8日月曜日

たばこでガンが治るクリニック?


インドネシアの首都ジャカルタのクリニックで、痩せ衰えた西洋人の女性を診察していた医師が、患者の口にたばこの煙を吹きかける。

「これを待ってたのよ」と、女性はうなった。女性は長年の喫煙がもとで肺気腫を患っている。がんや自閉症をたばこで治療することをうたい文句にしているこのGriya Balurクリニックに定期的に通っているのだ。


 このようなクリニックは、違法ではない。この国ではたばこを吸うことが一種の伝統となっており、規制も緩い。さらに数十億ドルの収益を生み出すたばこ産業が貴重な財源であることから、こうしたクリニックが問題視されることはないのだ。

 治療で使われるたばこは「ナノテクノロジー」の結晶で、「神のたばこ」と称されている。これを患部に吹き付けることで、がんの原因とされる「フリーラジカル」を取り除くという。ちなみに、ものすごい音量で流れているフィル・コリンズ(Phil Collins)の歌は、治療とは関係ないようだ。


 クリニックを創設したグレタ・ザハール(Gretha Zahar)博士によると、過去10年間だけで、たばこ治療を施した患者は6万人にのぼる。西ジャワ州のパジャジャラン大(Padjadjaran University)でナノ化学の博士号を取得したザハール博士は、たばこの煙に含まれる水銀を操作することで、がんを含めたあらゆる病気を治せるどころか、若返りにも効果があると信じている。

「水銀は万病のもと。わたしが開発した『神のたばこ』には体内の水銀を食べてくれる物質が含まれているのです」(ザハール博士)

 なお、博士は自身のウェブサイト上に、こうした理論を臨床試験で実証する必要はないし、学術誌に発表する必要もないとするコメントを載せている。

■喫煙習慣はびこるインドネシア

 インドネシアでは喫煙習慣がはびこっており、若い世代の喫煙率も高い。親はよく、静かにさせようとしてむずかる赤ちゃんにたばこを与える。コンサートでは10代の少年少女にもたばこが配られる。公共の場での喫煙を禁止する条例が施行されたためしはほとんどなく、街中にもテレビにもたばこの広告があふれている。

 世界保健機関(WHO)によると、インドネシアにおける喫煙率は過去40年間で6倍に増え、喫煙が原因で死亡する人は年間40万人、受動喫煙で死亡する人は年間2万5000人にのぼっている。だがインドネシアは、アジアでは唯一、たばこの規制に関するWHOのたばこ規制枠組条約を批准していない。

情報元:AFP News

2016年8月6日土曜日

漁業者から厚い信頼 インドネシア人実習生1年

 

兵庫県香美町香住区の但馬漁協香住支所がインドネシア人漁業実習生を受け入れてから1年が経過した。実習生は町の基幹産業に貢献するだけでなく、地元の祭りなどにも参加。住民から温かく迎えられている。今年も新たに3人が来日。漁業や地域の活性化に期待がかかる。

船体にペンキを塗るスジャルオさん(右)と山中船長。実直な働きぶりから実習生への信頼は厚い=7月28日、香美町香住区の香住漁協西港
 
 昨年7月から漁業に携わる1期生は20代の7人。いずれも水産高校の卒業生で、船舶業務に従事した経験がある。1カ月間の講習を受け、昨年9月の底引き網漁とベニズワイガニ漁の解禁に合わせて漁船計7隻に分かれて乗り組んだ。2カ月ほどで作業に慣れ、冬季の過酷なズワイガニ漁でも気後れすることなく役割をこなした。


 同漁協の組合員でつくる「香美町外国人漁業実習生受入事業協議会」の磯田和志会長は「環境が違う中、厳しい海上での生活を頑張っている。残り2年だが、漁業の戦力として頼りにしていきたい」と期待を込める。

 実習生は漁業振興だけでなく、地域活性化にも一役買っている。同区若松と一日市では、地元の若者と一緒にみこしを担いで汗を流した。住民と和気あいあいとしたひとときを過ごし、祭りを盛り上げた。


 7月に香住浜周辺で開かれた「香住ふるさとまつり」では、名物のたらいこぎ大会に出場。着実に地域に溶け込んでいる。実習生のモハマド・スジャルオさん(20)は「町はきれいで食べ物もおいしい。生活するのが楽しい」と笑顔で話す。

 言葉の壁や文化の違いを超え、何にでも取り組む実習生の仕事ぶりに対し、現場の評価は高い。スジャルオさんが乗り込む盛山丸では、他の船員と冗談を言い合うまでに親交が深まった。

 同船は来年も新しい実習生を受け入れる方針。1期生と共に活動することで、日本の生活に早く慣れさせる考えだ。船長の山中啓市さん(60)は「日本人には甘えてしまう人もいるが、実習生は信念がしっかりしていて物覚えもいい。あと2年で帰るのがもったいない」と信頼を寄せている。

情報元:日本経済新聞

2016年8月5日金曜日

第3ターミナル アルティメット:8月9日開業!


インドネシアの首都ジャカルタのスカルノハッタ国際空港(CGK)で8月9日、「ターミナル 3 アルティメット(Terminal 3 Ultimate、T3U)」が開業する。


 インドネシアのアンガサプラ2空港公団とガルーダ・インドネシア航空(GA)が8月4日、同国運輸省の承認を得て正式発表した。T3Uは、同空港の現行の2つの旅客ターミナルの混雑緩和と保安体制と旅客サービスの向上を目的として運用される新施設。LCC専用ターミナルとして2009年に建設された(旧)第3ターミナルのビルを大幅に拡張・刷新し、「アルティメット(究極)」の名称を冠して同空港を代表する最新旅客ターミナルとした。当初、今年6月20日の開業を予定していたが、直前に保安設備の問題などが見つかり、供用開始スケジュールが遅れていた。


 新ターミナルは年間2500万人の航空旅客の利用に対応できる。当初は、ガルーダ・インドネシア航空の国内線フライトのみ発着するが、今後、国際線の運航も予定。

情報元:みんなの空港新聞

2016年8月4日木曜日

廃材なのにシンプルでおしゃれな腕時計


腕時計は服と同様、自分を表現するアイテムのひとつ。だからこそ、デザインはもちろんのこと、ブランドのこだわりや背景に共感できるものを身に着けたい。インドネシア発の『MATOA(マトア)』は、森林伐採の進むインドネシアの環境保護を目的に立ち上がったウッドウォッチブランド。廃材を使いながらも、それを感じさせないシンプルながら洗練されたデザインが特徴だ。日本での発売は始まったばかり。チェックしてみては。


 文字盤やボディ、付属のケースをはじめ、ほとんどが天然木で作られている『マトア』の腕時計。材料は、首都ジャカルタ周辺から余り木を集め、その中から厳選されたものを利用している。アジア最大規模の熱帯雨林で囲まれているインドネシアでは近年、森林の伐採が広い範囲で行われており、その環境保護の目的でブランドは生まれた。余り木使用のほか、時計が1本売れるごとにインドネシアのバンドン州の森林に苗木を1本植える活動も行っている。


 デザインは、素材の良さを引き出すため、とにかく"シンプルさ"にこだわった。知的な印象を与えつつ、木ならではの柔らかさと独特なデザイン性を兼ね備えている。木材をベースにした腕時計は他にもあるけれど、ここまで徹底した商品はなかなか見られない。悪目立ちせずに存在感を発揮できるから、人と違ったおしゃれのアクセントにはもってこいだ。


 デザインは全7種類(通常タイプ5種とカレンダー付きタイプ2種)で、価格は2万5500円(税込)から。ファッション雑貨の販売を行なうボニートがオンラインのみで販売を行っている。

情報元:徳島新聞

2016年8月3日水曜日

インドネシアの中古車両、安全性も日本並み



インドネシアの首都ジャカルタの鉄道で、日本からの中古車両が活躍している。かつては車両点検や整備が不十分で運行上の不安もあったが、今や通勤通学で庶民の足として定着。JR東日本から派遣された日本人が整備のノウハウを伝えて安全性を追求しており「日本並み」に安心できる公共交通機関に育っている。

 「車内は快適。時間通りに来れば、さらにいいんだけど」。電車通勤している男性会社員のイッサ・アルマワディさんの感想だ。

 JR東日本や東京メトロ、東京急行電鉄からジャカルタ首都圏鉄道会社に譲渡・売却された車両は、2000年以降で計約850両。首都圏を走る電車の98%が日本からの中古車両となった。

 

 「車両点検といってもヘルメットもかぶらず、工具も持っていなかった」。昨年3月から鉄道会社へ派遣されているJR東日本の前田健吾さんは当初の様子を振り返って苦笑した。

情報元:SankeiBiz

2016年8月2日火曜日

インドネシアと日本の架け橋に〜OMIYAGE Inc. Indonesia

インドネシアに必要なのは、「伝える力」


2015年2月にOMIYAGE Inc. Indonesiaという会社を立ち上げられましたが、元々起業したいという思いがあったのでしょうか?
私の父が会社を経営しているので、幼い頃から自分で何かを創りだすことをイメージしやすい環境でした。
また、インドネシアは日本に比べると足りない部分がたくさんあるので、ビジネスチャンスも多く、起業も当たり前です。
私はインドネシアと日本のハーフなので、両方の感覚を活かして何かしたいという思いもずっと持っていました。
そこで思いついたのは、島国であるインドネシアには空港が多いので、空港に小売店を作るという事業。
空港で商品を販売すれば、それぞれの島に来る人の傾向や好みのデータを集められるので一石二鳥だと思ったのです。
土地毎にある地産地消の良いものを提供したかったので、おみやげさんをするつもりでした。
すぐに私の第二の出身地であるスラバヤの空港に提案したのですが、空港は利権が強く、新規参入が難しくて断念。
そこで、空港が無理だったら各都市でおみやげを作って販売しようと思い、色んな方に会うたびに話していたところ、日本の大手おみやげ企業の方を紹介していただけたのです。
現在その企業とパートナーシップを組み、お菓子の製造と小売りをメインに事業を行っています。


なぜ、数あるおみやげのなかからお菓子を選ばれたのでしょうか?


インドネシアに来た人に、「食べ物のおみやげがない」と言われたことがきっかけです。
島国であるインドネシアには土地毎に豊かな文化があり、おみやげになるような雑貨や布もあります。
でも、食べ物の場合、日本のように購買者の気持ちに沿った売り方がされていないのです。
たとえば日本ではお菓子は配りやすいように小分けにされていますが、インドネシアでは大きな袋でしか売っていなかったりする。
私はインドネシアで育ったので、この国の美味しい食べ物をたくさん知っています。
魅力的なものは十分あるので、それをうまく発信していきたい。
インドネシアにある伝統的なお菓子を発掘・リブランディングしたり、日本のお菓子をインドネシアで製造販売することもやっていきます。


今後のインドネシアが発展するために必要なことは、コンテンツの魅力だけではなく、"伝える力"なのですね


そうです。
特に、インドネシアで影響力のある人間が伝えていくことで、大きなムーブメントを作れると思います。
だから、大事なのはそういう人たちに興味を持ってもらえるような、高いクオリティのものを作ること。
インドネシア人の愛国心は日本人よりも強いと思うのですが、たまに盲目的に感じることがあります。
たとえば、「インドネシアのことを愛している」と言いながら、買っているものの99%が外国産だったりする。富裕層だと、なおさら外国製のものを購入する傾向があったりします。
だから、本当に良いインドネシアのものを作り、影響力のあるインドネシアの人たちと組んで国内外に発信していくことも、今後の事業を通してやっていきたいことですね。


自分が生まれ持ったものを活かせる場所が、インドネシアだった


今までに、日本、インドネシア、シンガポール、オーストラリアとさまざまな国に住まれていますが、オーストラリアの大学卒業後、なぜインドネシアでの起業を選ばれたのですか?
日本人とインドネシア人というふたつのアイデンティティを最高に活かせる環境で働きたいと思ったからです。
それを考えた時、必然的にインドネシアに戻るという選択肢をとることになりました。
私が自分のアイデンティティーに目覚めたきっかけは、2011年の東日本大震災。
それまでは、自分のことをインドネシア人だとか日本人だとか意識したことがありませんでした。
でも、地震が起こった直後、学内の起業家コミュニティーによるチャリティープロジェクトが立ち上がり、あっという間に250万円が集まったんです。
その様子を見ながら、自分も日本のために何かしたい、彼らのようにムーブメントを起こせる存在になりたいと強く思うように。
そこからは、自分がハーフであることを活かして何かしようと考え始めました。
また、現在私の父は祖父が創設した会社を経営しています。
いつか私が引き継ぐのですが、そのこともインドネシアで働く大きな理由のひとつです。
代々続いているビジネスのネットワークがすでにあって、それを活かせる立場にいること。
普通だったらネットワークをゼロから見つけるところを、1000から始められる土台がある。
幼い頃は、生まれてきた瞬間に自分の人生のレールが敷かれているなんて嫌でした。
でも、活かせるものも多いということに気づいたら、段々楽しくなってきたんです。
もちろんプレッシャーもありますが、その立場があるからこそ経験出来ることもある。
だから、日本に行くのもオーストラリアに残るものやめて、インドネシアで自分の持っているものを活かして生きることを決めました。


海外に出ない日本人は、鎖国精神で突き抜けて欲しい



ご自身がハーフであることを活かした人生を歩まれようとしているのですね


でも、海外にはハーフという概念がそもそもあまりないんですよ。
こんなに単一民族なのは日本と韓国くらいではないでしょうか。
半分インドネシア人である私からすると、逆に日本人であるということは非常に価値があること。
この肩書きだけで、活かせることは無限にあります。
日本のパスポートがあれば大抵の国へ行けるし、教育の質が高いので人材の質も高い。
それにも関わらず、日本人の4分の1しかパスポートを持っていない状況なのです。
これだけ良いパスポートを持っているのになぜ? と外国人は思っていますよ。
もちろんシンガポールやニューヨークのように世界中から優秀な人が集まるような場所に行ったら厳しいかもしれませんが、別にそこで勝負する必要はない。
自分が持っているものを活かす場所が絶対どこかにあるのに、海外に出たいと思っていて出ないのは勿体ないと感じますね。
たとえるならば、日本人は井の中の蛙ではなく、「井の中のハイパー蛙」だと僕は思っています。


日本人は、もっと海外に出るべきだと思いますか?


出たくない人は、出なくていいと思います。
日本人の、「海外に出ない」という鎖国精神も大好きなんです。
出ない人はその方向性で突き抜けて欲しい。
だって、そういう人たちもいないと日本の良さがなくなってしまうじゃないですか。
世界基準にそぐわないものが日本でのみ流行っていたり、日本人にしかわからないようなハイコンテクストのやり取りがされているから面白い。
それがあってこその日本の文化なので、なくさないで欲しいですね。

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今後ご自身は、どんな存在を目指されているのか教えて下さい


目指すのは、日本では「インドネシアと言えばリッキー」、インドネシアでは「日本と言えばリッキー」という、架け橋のような存在です。
その達成に一番近い場所が、世界の中でインドネシアだったので、この場所で働くことを選びました。
私は、これから経済成長が期待されているインドネシアという国のハーフとして生まれました。
今の時代にこの立場であるということは、とても運が良いこと。だから、自分に与えられたこの環境を精一杯活かしていきたいですね。

情報元:HUFF POST

2016年8月1日月曜日

手のひら決済:JCBなど、地場銀と実験


ジェーシービー(JCB)と富士通はインドネシアの地場銀行と組み、手のひらをかざすだけでクレジットカード決済ができるシステムの実証実験をジャカルタで始めた。JCBによると、実際に発行されたカードを用いて社外で本格的に実験するのは初めて。2017年の商用化を目指す。


 カード発行で提携する国営大手銀バンク・ヌガラ・インドネシア(BNI)の社員100人程度を対象に24日から始めた。あらかじめ手のひらの静脈とカードの情報を登録しておくと、認証装置に手のひらをかざすだけで決済できる。財布やカードを持ち歩かずに支払いができ、指紋認証と比べ偽造されにくいため安全性が高いという。BNIの社員は衣料などの買い物をして新システムを試した。


 商用化に向けて、8月にはBNIの本社ビルに入居するテナント数店舗でも実験する。インドネシアのクレジットカード利用者は人口の1割に満たない。JCBは富裕層向けの需要は大きいとみて、高級ホテルなどへの導入を目指す。

情報元:日本経済新聞