2016年9月30日金曜日

車掌の「最後のアナウンス」に涙 海外譲渡される南武線での出来事


JR埼京線や横浜線で活躍してきた205系。JR東日本は今年4月、南武線で使用してきた120両をインドネシアの「ジャカルタ首都圏鉄道」(KCJ)に譲渡すると発表しました。少しずつ譲渡を進めてきましたが、12月6日夜に最後の車両が営業運転を終えました。終点を前にして流れた車掌のアナウンスが「感動的」「泣いた」と話題になっています。どんなメッセージだったのでしょうか? JR東日本に話を聞きました。

船に積み込まれる205系



終点の武蔵中原駅が近づくなか……


 川崎駅(神奈川県)と立川駅(東京都)などを結ぶ南武線。譲渡されるのは、この路線を走っていた205系の120両ですが、全車両というわけではありません。1編成は今も現役で、1月9日まで運行予定です。

 譲渡される最後の車両の最終運行があったのは12月6日。最後の車両ということもあって、11月16日から「南武線→海外譲渡」と書かれたヘッドマークをつけて運行していました。また、車内には幼稚園児や保育園児が描いた絵や205系の塗り絵などを展示。そのままにしてジャカルタへ譲渡されます。

 終点の武蔵中原駅が近づくなか、こんなアナウンスが流れました。


 ただいまご乗車いただいておりますこの車両は、本日をもちまして南武線の営業運転から引退し、今後はインドネシア・ジャカルタに渡り、走り続けることとなります。まもなく終点の武蔵中原です。電車をお降りの際は、お忘れ物のございませんように、また、この電車との思い出もお持ち帰り頂けたら幸いでございます


アナウンスを聞いた乗客たちが、ツイッターにそのときの様子を投稿すると、「車掌さんの言葉に感動」「泣けた」「号泣」といったコメントが寄せられました。

205系の車内。車内には幼稚園児や保育園児が描いた絵や205系の塗り絵などを展示。そのままにしてジャカルタへ譲渡される


JR東日本に聞きました


 このことについてJR東日本に聞いたところ、こんな回答が寄せられました。

 「実は12月6日に最終日を迎えた当該車両では終日、このようなアナウンスをしていたんです。最終列車だけではありません。長らく南武線205系をご愛顧いただいたお客さまへの感謝の気持ちを込めました。こうした反響をいただけたことを、ありがたく思っています」

JR東日本で活躍した205系電車が到着するのを待つ乗客ら=ジャカルタ・コタ駅



ジャカルタでは主力車両として活躍


 これまでにジャカルタへ渡った205系は、今回の分も含めると500両近くになります。現地では主力車両として活躍しています。

 KCJが日本の中古車両を積極的に導入するきっかけとなったのは、2000年に都営地下鉄三田線の車両を無償譲渡したことでした。不要になった電車を、カネをかけて解体するのではなく有効活用しようと、日本と同じ線路幅のインドネシアに譲渡したのです。

 それからKCJは日本から中古車両を買うようになり、増えた車両を武器に2008年からの6年で運行本数を5割増やし、1日の乗客数を倍の65万人に伸ばしたといいます。積極的に売り込んでいるJR東日本は、「アフターサービス」として技術者を派遣。鉄道運営で相互協力していく覚書も締結しています。

 JR東日本は「これまでインドネシアにおいて実施してきた技術支援は、世界の鉄道発展への寄与、廃車予定の車両の有効活用による環境面での意義、海外での技術支援のノウハウ獲得といった観点から実施してまいりました。今後もオペレーション、メンテナンス、及びマネジメントの分野で協力していく予定です」としています。

情報元:withnews

2016年9月29日木曜日

【カリバタ英雄墓地】日イの歴史に思いを馳せる場所


ジャカルタ南部にあるこの墓地は

想像以上に広く、まるで遺跡のよう・・・

ここは

国籍、宗教、性別問わず

インドネシア独立戦争で戦績をあげた方々が埋葬されている墓地です。


””
独立の英雄としてこの墓地に埋葬されることは、インドネシアで最高の栄誉とされており、その葬儀にはインドネシアの国防省代表、インドネシア国軍の葬儀委員、儀仗兵、軍楽隊が参加して、厳粛に執り行われる。
インドネシア独立戦争に参加した28人の日本人戦没者が埋葬されている。
独立戦争を生き抜いた日本人元兵士にはインドネシアによってゲリラ勲章が授与され、英雄墓地に埋葬される権利を得るが、本人が望まない場合や書類不備などの場合、一般墓地に埋葬される。
                                        ””


墓地内のモニュメント



第二次世界大戦終戦後「武器を捨てろ」という命令に背いてまで

インドネシア独立のために戦った日本人がいたそうです。

この出来事が、インドネシアが親日国である理由の一つなのかもしれません。

約7,000人が眠っている墓地。

ちなみにここは土葬です。

ジャカルタ内とは思えない空間



インドネシアでプルメリアは代表的な供花なので

墓地の周りにはプルメリアの木がたくさん植えられていてとても良い香りがします。

時間の流れもゆっくりに感じられます。

お墓の周りにはたくさんのプルメリアの木
お墓の周りにはたくさんのプルメリアの木


お墓の周りにはたくさんのプルメリアの木



お墓の周りは常に綺麗に清掃されていて

私が訪れた日もたくさんのインドネシア人が草木の手入れをしていました。

敷地内はインドネシアとは思えないほど綺麗で

ゴミひとつ落ちていない不思議な空間です・・・



一人一人のお墓に、軍隊のヘルメットが飾られていて

日本人のお墓には、日本名とインドネシアでの通称名が併記されています。



日本人のお墓がなかなか見つからなくて彷徨っていたところ

お墓のお手入れをしているお兄さんが案内してくれました。

旧日本兵の墓地



毎年独立記念日にはお墓一つ一つがライトアップされ魂を弔うそうです。

2015年4月22日には安倍首相も献花に訪れています。



インドネシアと日本の歴史に思いを馳せる。

そんな日があっても良いのではないでしょうか?



カリバタ英雄墓地
住所:Jl. Raya Kalibata, Kota Jakarta Selatan
電話:+62 815 19528498 

情報元:Tripuuu

2016年9月27日火曜日

<BALIVITA>人気のチーズケーキはやっぱり素晴らしいお味?


異国の地に住んでいると、日本の味がむしょうに食べたくなるときがあります。
最近では、日本レベルのお味を堪能できる日本食レストランやパン屋などが多くなったバリ島ですが、スフレチーズケーキで美味しいと思えるものに、とんと出会ったことがなかったのです。

ところが、バリ島のサンセットロード沿いにある、カルフールに近い「BALIVITA」というパティスリーのチーズケーキが美味しいという情報を入手しました。
さっそくお店に行ってみると、素晴らしく綺麗な店内にニコやかな店員さん。
お店が空いていたからか、「これ良かったら試食してくださいね。」と、ケーキやらパンやらいっぱい試食させてもらいました。


お目当てのチーズケーキは、レジ横のショーケースに納められていて、ちょっとサイズが小さめであるものの、お値段約600円ほど。

試食させて頂いた段階で、即購入決定と即断してしまうほど、美味しいケーキでした。
他にも、パンやらお菓子やら「日本レベル」の味が揃っているので、ついつい「絶対に潰れないでね!」と願わずにはいられない、そんな新しいお店でした。

情報元:wowネタ!

2016年9月26日月曜日

初!FES☆TIVE、インドネシアの人気テレビ番組に登場


FES☆TIVEが、8月19日にオンエアされたインドネシアの人気テレビ番組『Inbox』へ生出演した。

楽曲・パフォーマンス・映像など、“お祭り”というコンセプトに徹底してこだわっているFES☆TIVE。YouTubeで公開した動画をきっかけに海外のジャパンフェスからオファーが相次ぎ、これまでタイと香港に遠征してきたが、今回は8月20日に開催されるインドネシア大学主催のジャパンフェス<GELAR JEPANG22>へのメインアクト出演のため、8月18日よりインドネシア入りしているという。


FES☆TIVEは、番組冒頭から通訳を介しながらバラエティタレントとのトークに参加。PSYの「GANGNAM STYLE」のカバーダンスやインドネシア伝統舞踊などを踊らされる無茶ぶりもありつつ、ラストには3rdシングルより「進めジパング」(Go Zipang)をパフォーマンスすると、公開収録に集まったオーディエンスから大きな声援が集まった。インドネシアでは『Dahsyat』という音楽番組が有名で、数組の日本人アーティストの出演実績があるが、この番組の双璧とも言われる『Inbox』に出演した日本人アーティストはFES☆TIVEが初めてとのことだ。




なお、インドネシアのお茶の間でいきなり知られることとなったFES☆TIVEは、8月20日に約5,000人収容のParkir Timur Senayanにて、<GELAR JEPANG22>のメインアクトとして75分のライブを行う予定。また帰国後となる9月4日には、名古屋LIVE HALL M.I.Dにてワンマンライブを実施する。



情報元:BARKS

2016年9月22日木曜日

日本人によるクディリの絶品ケーキ

 

東ジャワ州クディリに絶品スイーツがあるのをご存じだろうか。インドネシア人パティシエのアフマド・アリス・チャキム(36)さんと、妻の宇田川朋美さん(37)が営む「パティスリー・アフマドアリス・宇田川」。小さな田舎町にある小さなパティスリーには、毎日こだわりのケーキが並ぶ。

 アフマドさんは約14年間、日本で修業した。特に日本で学んだスポンジのきめ細かさや柔らかさ、フランス人から教わったムースの作り方にこだわる。味はインドネシア人の好みに合わせず、甘すぎない繊細な味を表現する。
 
日本人に人気の「ガトーフレーズ」はショートケーキのこと。酸味のあるイチゴに甘すぎない生クリーム、やわらかいスポンジの間にもいちごがぎっしり。これで2万ルピアはうれしい。


毎月、必ず1種類以上の新作を出している。今月限定のパッション・マンゴーはマンゴーの甘味とチーズがよく合う。紅茶やコーヒー、緑茶とシェフのおすすめケーキのセットは3万ルピア。アットホームな店内では、のんびりとした時間が流れる。

朋美さんは旅行先のバリでアフマドさんと出会い、2年後、アフマドさんが東京へ。アフマドさんは日本で食べた数々の料理のおいしさに感動し、ゼロからのスタートだったが、日本で料理人を目指し始めた。
 

東京・代官山の製菓・調理専門学校に通いながら、イタリア料理店に勤務。卒業後は製菓関連企業に就職し、13年には「パティスリー界のピカソ」と言われたフランスのパティシエ、ピエール・エルメが展開する「ピエール・エルメ・パリ」の東京アトリエに入社。フランス人からスイーツ作りを学んだ。
 
アフマドさんの出身地で両親も住むクディリで14年7月に店をオープン。「生まれ故郷のインドネシアとお世話になった日本の両方に恩返ししたい。日本で学んだおいしいケーキを、できるだけ多くの人に食べてもらいたい」と話す。インドネシアではバターケーキが主流で生クリームのケーキはまだ新しい。パティスリーが何かわからない人や、おいしいケーキの味を知らない人がほとんどだという。
 
朋美さんは「こんな田舎町までわざわざ来てくださるお客さんがいて本当にうれしい」と話した。
 
クッキーやマドレーヌ、フィナンシェなど日持ちするものは配送が可能。ギフトにぴったりな詰め合わせもある。今後は月に2回ほどスラバヤへ販売に行くことも検討しているという。 ショーケースに飾られている絶品ケーキたち。クディリまで足を伸ばしてぜひ味わってみて。

◇Patisserie Achmad Aris Udagawa
住所 Jl.Panglima Sudirman No.37 Kediri, Jawa Timur

☎  0354.688.689
営業 午前11時~午後7時半

情報元:じゃかるた新聞

2016年9月21日水曜日

電車に持ち込んではダメ! インドネシアの道徳教育


インドネシアの首都ジャカルタ(人口約1030万人)を走る電車のドアには、車内での禁止事項を記したポスターが貼られている。銃器や可燃の油を持ち込んではいけない、たばこを吸ってはいけない-などは当然だが、いかにもインドネシアっぽい禁止事項もある。

 まず、てんびん棒を担いで電車に入ってはいけない。お菓子や食べ物などをぎっしり詰めた箱を棒の両端につり下げている行商人はお断りという意味で、数年前まではよくいたそうだ。

 動物を入れてはいけないという項目もある。家畜のヤギやニワトリを電車で運ぶ例が過去にはよくあったという。

 ギターを持ち込んで車内で歌ってはいけない。ギターを片手に、客からリクエストされた歌謡曲を歌う「流し」が多かったようで、これも禁止だ。

 果物の王様ドリアンを持ち込んではいけないというのは、独特で強烈なにおいが迷惑になるからだと合点がいく。

 「4、5年前までは車両の上に登るのは当たり前。車内には猿回しまでいて大変な騒ぎだった」。そう語る知人のインドネシア人男性は「電車内でのマナーを通じて、インドネシア人は今、道徳を学んでいる過程にある」と説明する。

情報元:産経新聞

2016年9月19日月曜日

ジャワ島の密林に潜む怪しげな「鳩のドーム」


インドネシア・ジャワ島の内陸部。熱帯雨林が生い茂る人里離れた小高い山の上にそれはある。「Gereja Ayam」現地の言葉で(鶏の教会)を意味し、“Chicken Church”の異名をもつ。

けれど、この不思議なモニュメントは必ずしもキリスト教徒のためのものではない。


◼︎そこは、神を信じる者が集う場所




ジャカルタに暮らすDaniel Alamsjah(67歳)は、ある日神からの啓示を受けた。人々が集まるための礼拝堂を造るように。その建物のかたちはハトを模したものに、と。

夢の中の出来事かそれとも幻想か、啓示が離れずにいたDaniel。それからしばらくして、彼は妻の故郷マグランを訪れる。ジャカルタから500キロ以上離れた熱帯雨林が生い茂る山村で、彼はあの日告げられた場所にそっくりな景色に遭遇した。

小高い丘の上に建つ礼拝堂、あの啓示は自分をここへ連れて来るためのものだった。そう確信したDanielは、この地に留まり、村の男たち数人を雇いハトの礼拝堂建設に乗り出す。1989年のことだ。



「私のキリスト教への強い信仰もあって、人々はこれを教会だと思ったはず。でもそうじゃない。ここは神の存在を信じるすべての人のためにあるんだ」

自分は司祭でも原理主義者でもない、多くのフィリピン人たちと同じ敬虔なクリスチャンだ、「Jakarta Globe」の取材にこう答えたDaniel。貯金をはたいて建築に乗り出したものの資金は底を尽き、今も未完成のままだという。2000年以降手つかずのままの建造物は、熱帯モンスーンの風雨にさらされ、年月を経て、緩やかに朽ち果ててきた。それでも、今でもこの大地で羽を休め、人々が訪れるのを静かに待っている。


かろうじて、くちばしだけ朱色を留める“平和の象徴”。2000年以降手つかずのままの建造物は、熱帯モンスーンの風雨にさらされ、年月を経て、緩やかに朽ち果ててきた。

それでも今でもこの大地で羽を休め、人々が訪れるのを静かに待っている。


情報元:ガジェット通信

2016年9月17日土曜日

戦時下の幻の邦字新聞・「スマトラ新聞」


戦時中、日本軍の占領各地で日本語新聞が発行されていた。インドネシアのジャワとボルネオ(蘭領)では朝日新聞が「ジャワ新聞」と「ボルネオ新聞」を毎日新聞はフィリピンとセレベスで「マニラ新聞」と「セレベス新聞」,読売新聞はビルマで「ラングーン」新聞を発行していた。また同盟通信(現在の共同通信)は昭南とスマトラで、地方の加盟社と組んで「昭南新聞」と「スマトラ新聞」を出していた。

「昭南新聞」や「ジャワ新聞」は幸い記録が残っており、「セレベス新聞」も戦後、関係者が記録として本にしている。しかし「スマトラ新聞」については記録がない。ジャカルタの国立図書館には、その一部がマイクロフィルム化されて保存されている。筆者はたまたまこの「スマトラ新聞」記者の一人だった菊池秀広氏(故人)と戦後北海道文化放送で職場を共にし、平成8年一緒に「スマトラ新聞」のあった西スマトラのパダンを旅行し戦争当時のことを聞いたが、残念ながら整理した形での見聞ではなかった。


菊池秀広氏は平成12年、「スマトラ新聞」在勤時の体験を基にして「ムルデカに喝采を!」(講談社出版サービス)出版した。菊池氏は本の序文に書いている通り、登場人物や地名は実名だが、話の一部はフィクッションである。筆者は戦後パダンを中心にした旧西海岸州には4回旅行しており、戦中のスマトラについては通じている。
そこで、菊池氏の著書「ムルデカに喝采を!」を基にして生前菊池氏からお聞きしたことから「スマトラ新聞」について記してみた。



◼︎パダンが本社
菊池秀広氏は経歴によると、昭和16年北海道の小樽新聞に入社、翌17年、新聞統合で題名が北海道新聞に変更になったあと18年9月、昭南(シンガポール)にあった「昭南新聞」に派遣され、さらに「スマトラ新聞」に出向された。菊池氏によると「スマトラ新聞」はインドネシア・スマトラ西海岸州の州都パダンに18年6月、創刊された日本語の新聞で、菊池氏らは同新聞の第二陣として派遣されtきた。


「スマトラ新聞」本社はパダン市中心街に近い華僑街のはずれにあった。平成8年2月、筆者が菊池氏とパダンを訪れた時には、まだこの建物が残っていた。もともとここは、オランダ時代マレー語の新聞が発刊されていた場所で「スマトラ新聞」のほかに「Padan Nippo」(日報)というマレー語の新聞も発刊されていた。「スマトラ新聞」は朝刊2ページ1版建てであった。パダンから50㌔北には戦争中スマトラ全土を統括する第25軍総司令部があった。読者は主としてパダンとブキティンギの軍関係者と商社や軍属だったが、当時のパダンの邦人人口は800人程度から見て、発行部数は千部前後と推定されている。

◼︎記事
記事の内容は現地取材と同盟通信からのゲラ刷りによる配信記事であった。同盟通信は第25軍司令部のあったブキティンギに支局があり記者が一人常駐していた。昭和18年6月、菊池記者がパダンに赴任してきた時はまだ23歳で「スマトラ新聞」では最年少だった。仕事はパダン市内の華僑街の取材といわゆる”街だね”だった。
菊池記者は現地で雇った沖縄漁師の息子の宋丸男少年を通訳に市内を取材した。時には第25軍司令部のあるブキティンギに日帰り出張して軍の記者会見なども取材したが、すでに軍当局は、現地人の独立運動に敏感になっていた。

情報元:1000都物語

2016年9月16日金曜日

市民生活を一変させたインドネシアの「IT革命」


ASEAN最大の経済規模を誇るインドネシアで、2015年中頃に「革命」が発生した。

それは「IT革命」と呼ぶべきだろうか。米ドル換算で100ドル程度の4Gスマートフォンが、市場に登場したのだ。

「市民の誰しもがスマホユーザー」ということは、日本人から見れば特段珍しいことではない。だが、ここはインドネシアだ。2億5000万もの人口を有し、しかも日本では考えられないほどの経済格差がある。富裕層と貧困層、都市部と農村部、ジャワ島とマルク諸島ではまるで別世界だ。浦島太郎が龍宮城に行くにも等しい。

そのような国で、誰しもが同一の情報を共有するとどのような現象が起こるのか。それは誰にも分からない。想像ができないほどの巨大な可能性に富んでいる、ということだ。


◼︎バイクタクシーアプリの衝撃

バイクタクシーは、インドネシア市民の重要な交通手段である。

そのバイクタクシーを手配するのに、今ではスマホアプリが使用される。『Gojek』はインドネシアで初めてオンライン配車を始めたバイクタクシー企業だ。登場からまだ2年も経っていないにもかかわらず、ジャワ島各都市でGojekは市民の足と化した。

また、このGojekが貧困解消の手段としても注目されている。インドネシアに限らず、どの国でもタクシー業というのは出稼ぎ労働者の仕事だ。特に技能のない地方部出身の男が確実に収入を得るとしたら、タクシー会社か建設現場に行くのが一番手っ取り早い。そういう流れとは一切無縁な日本のタクシー業界は、国際的に見れば例外中の例外である。

ジャカルタ在住の出稼ぎ労働者は、スマホの液晶画面から仕事を得ることができるようになった。そういう側面もあるから、陸運業界がどんなに反発しようと政府は新興配車サービスの「完全排除」には乗り出さない。雇用が増える分には、やはり喜ばしいことだからだ。

新規参入者にも大きな可能性
もともとこの国の人々は、「スーパーマーケット」よりも「商店街」に頼る傾向がある。

要するに大企業よりも個人経営の零細業者のほうが信用されるということだ。「情報」よりも「伝聞」が説得力を持つ国では、零細業者の集合体が市場で幅を利かす傾向がある。するとそこに、新規事業者が参入する余地が生まれる。


たとえばtukangbersih.comは、現在急成長している清掃サービス業者である。インドネシアの富裕層は昔からメイドを雇う習慣があったが、最近ではメイドをやめて清掃サービスと契約するケースが相次いでいるという。

メイドという職業の危険性については、以前から議論されていた。国外ではインドネシア人メイドが雇い主に虐待されていたということがあったし、またメイド自身が怠慢や不正をやらかして問題になる例もある。

ならば、スマホアプリでいつでも呼び出せる清掃業者に頼もうと考えるのは、人情というものだ。

日本を追い抜く日は来るか?
つまり、スマホの普及から始まったスタートアップブームは、この国の生活様式すらも変革しているということだ。

もしこうした現象が、農村部にも波及したら?

インドネシアの農業は近代化が遅れていると言われているが、それでも高度な技術を持った農家も存在する。先日、インドネシアの人気トーク番組『Hitam Putih』にバナナ農家のラシオ・シャイフディン氏が出演していた。この人物はイタリアに農業講師として招聘されたほどなのだが、こうした農家が「スマホアプリの可能性」に気づいていたとしたらどうだろうか?

いや、それ以前にインドネシア政府が「農村部でeコマース事業立ち上げを」と呼びかけ、すでにアプリ開発を行っている。この国の飲み込みの早さを侮ってはいけない。農協のネットワークのみに頼れなくなった日本の農家が頭を抱えている時、インドネシアの農家はすでにスマホを手にしている。近い将来、農協がインドネシア人生産者を流通分野の講師として呼ぶ日が来るかもしれない。

それだけ、この国は急速な「進化」を遂げているということだ。

情報元:LIVEDOOR News

2016年9月15日木曜日

ハローキティラン、インドネシアで初開催!

株式会社トキオ・ゲッツとその支社であるPT.TG Rights Studio Jakarta は、2016年11月6日(日)、ジャカルタ南西部に立地するイオンモールBSD CITYにて『ハローキティラン インドネシア2016』を開催します。


アジアでアニメやキャラクターなどを使った企業プロモーションやイベントを企画・コーディネートする株式会社トキオ・ゲッツ(代表取締役:原浩平)とそのジャカルタ支社であるPT.TG Rights Studio Jakartaは、2016年11月6日(日)、インドネシア初開催となる人気マラソンイベント『ハローキティラン インドネシア2016』を、ジャカルタ南西部に立地するイオンモールBSD CITYにて開催します。


2016年11月6日(日)、『ハローキティラン インドネシア2016』はジャカルタ南西部に立地するイオンモールBSD CITYで開催し、最大5,000人の参加者を想定しています。イベントテーマは“HAPPY LUCKY TOGETHER”。四つ葉のクローバーをモチーフにして、ハローキティがランナーへ幸運を届けにやってきます。


当日は沢山のハローキティで彩られた5kmのコースを楽しみながら走ることができ、完走者には大会限定のメダルをプレゼント。また会場にはハローキティもかけつけ、ランナーの皆さんを応援します。また、フォトコーナーやハローキティにちなんだブースなど様々なアクティビティが用意されており、子供から大人まで楽しめるイベントとなっています。

参加費は購入時期によりIDR250,000~IDR320,000(日本円:約1,900円~2,500円)。エントリーした皆さま全員に、Tシャツ、バッグ、ゼッケンがセットになった大会限定のオリジナルハローキティグッズをレースキットとして進呈します。エントリー受付は2016年8月22日(月)より開始しています。

『ハローキティラン インドネシア2016』WEBサイト(英語・インドネシア語)
www.hellokittyrun.id

情報元:PR Times

2016年9月13日火曜日

インドネシア進出の専門家が唐揚げ専門店をオープン

今回は、インドネシアで唐揚げ専門店「ZAN-GI(ザンギ)」を運営する株式会社JAPASIAN(ジャパジアン)へのインタビューです。インドネシア進出の支援業務を手掛ける専門家でもある同社は、なぜ「唐揚げ」を選んだのか? インドネシア市場の魅力と海外展開を進める流れについて、海外事業開発部ディレクター・椿光一氏に伺いました。


●事業内容について教えてください

弊社は2014年の5月に創業し、インドネシア国内で3つの事業を展開しています。1つめはインドネシアへ進出をお考えの企業に対する進出支援事業です。2つめは進出済み企業へのマーケティング支援事業を行っています。そして3つめが飲食事業です。


●なぜ、インドネシアで事業を始められたのですか?

創業前に東南アジアの数カ国を視察し、「これからの日本は、より積極的に外へ出ていかなければならない」と肌で感じました。そして“日本の素晴らしさをアジアへ伝える”というミッションを掲げ、代表の小林と共にJAPASIANを創業しました。

インドネシアを選んだのは、3つの理由があります。1つめは、成長する東南アジアの中で約2億5千万人と最も人口が多く、潜在的な市場規模が大きい点です。2つめは、世界最大のムスリム国家でありムスリムマーケットに展開するためのノウハウが得られると考えたから。そして、3つめは、日本ブランドに対する信頼度が高く、今後の日本にとって重要なマーケットとなると感じたからです。

●飲食事業を始めたきっかけを教えてください

日本が世界で戦っていける武器はいくつかありますが、その中でも食文化は強烈な武器になると感じていました。BtoB(企業間取引)事業で進出企業を支援するだけではなく、自ら一般消費者向けに飲食事業を展開することで得られる知識・経験も多いと考え、現地での飲食事業展開に踏み切りました。


●なぜ、「鶏の唐揚げ」だったのでしょうか?

日本語で「いただきます」と書かれた、遊び心のあるパッケージ
日本語で「いただきます」と書かれた、遊び心のあるパッケージ

業態を検討する段階では、いくつかの日本食が候補として上がっていました。最終的に唐揚げを選んだのは、インドネシアにも“アヤムゴレン”と呼ばれる鶏肉を揚げた料理があり、受け入れられやすいと考えたからです。「アヤムゴレンと唐揚げの違いがわかってもらえるか」という懸念もありましたが、テストマーケティングを行い、違いは伝わると判断しました。
また、気軽に食べられるテイクアウト形式の導入や、インドネシア人が大好きなサンバルなどのソースと併せて提供するなど、販売方法にも工夫ができると考えました。他にも、鶏肉は素材調達の安定性が高く、主な客層となる中流階級向けに価格を抑えて提供できる点も、唐揚げを選ぶ上でプラスの判断材料になりました。

約1年間の準備期間を経て、2015年11月に「JAPANESE KARAAGE STAND ZAN-GI(以下、ZAN-GI)」として、ジャカルタの中心地であるスディルマンエリアに第1号店をオープンしました。

●店舗出店の際に注力したことは何でしょうか?

特に注力したのはテストマーケティングです。唐揚げをメイン商材に決める前後を含めて、実際のお客様となるジャカルタのオフィスワーカーを対象に何度も実食テストを行いました。とにかく仮説立案、検証、改善をスピーディーに繰り返すことで、日本人・インドネシア人の双方においしいと言っていただける商品が開発できました。

●インドネシアへの進出で、苦労したことは何でしょうか?

細かい苦労話を挙げるとキリがないのですが、一言にすると「ビジネス感覚の理解」でしょうか。アポイントに対する考え方、スケジュール管理、納品物のクオリティ、契約書の解釈まで、あらゆる感覚が日本の常識とは異なります。予定通りに進まないことを前提に、計画を立てることが重要だと感じています。

ただ、現地の感覚を理解しつつも、相手に自分を合わせ過ぎてしまうのは問題だと思います。仕事のクオリティが現地のレベルに合わせて下がってしまうからです。相手への理解を示しながら、こちらの要望をできるだけ実現してもらう。今でも日々勉強中です。

●今後の展開について教えてください

まずはZAN-GIおよび日本の唐揚げの浸透に努め、2016年12月期までに直営店を数店舗出店したいと考えています。


●最後に海外展開成功のためのアドバイスはありますか?

まだ我々も実業としては開始したばかりですが、「予定通りに進まない」と焦ってしまうことがないよう、余裕を持った計画を立て、計画修正の柔軟性を持つことが重要だと思います。また、海外に出ると、国民性や宗教、ライフスタイルなど日本とは様々な面で異なることを実感すると思います。その際に現地のことに詳しい、相談できるパートナーを見つけることも成功への近道だと思います。

情報元:インドネシアFOODS NAVI

2016年9月8日木曜日

戦時中、京成がインドネシアで進めた「幻の」鉄道建設

第二次世界大戦中の国家による統制は鉄道やバス会社にも及びました。そのひとつ、京成電気軌道(現在の京成電鉄)が日本占領下の東南アジアで鉄道建設を命じられたことは、あまり知られていないかもしれません。その鉄道がたどった運命とは——。


インドネシアで資源開発を目的に

 京成電鉄が第二次世界大戦中、日本占領下の東南アジアで鉄道の建設を請け負っていた歴史は一般に知られていないかもしれません。

 鉄道やバス会社は1938(昭和13)年に国家総動員法や陸上交通事業調整法が制定されたことで国家の強い統制下に置かれます。そうしたなかで京成電鉄の前身、京成電気軌道も事業再編などを余儀なくされたほか、1943(昭和18)年には南方戦線の占領地域における資源開発を目的とした鉄道建設を国から命じられてしまいます。


 鉄道建設の現場となったのはインドネシアのセレベス島(現在のスラウェシ島)です。計画は同島の最大都市マカッサルを起点とした、南北およそ77kmの鉄道を建設するというもので、その目的は同島における飛行場建設に必要な資材を運んだり、石炭や石灰石などを港に輸送したりすることでした。

情報元:乗り物 ニュース

2016年9月7日水曜日

カナダ名門大に12歳の少年入学 インドネシアから


自分はまだ若いと思っている人も、実はそうでもなかったと痛感するかもしれない。カナダ有数の名門大学に8日、12歳のインドネシア人の少年が入学し、自分のほぼ倍の年齢の学生たちに交じって学生生活をスタートさせる。しかも、こうした「若き天才」は彼だけではないようだ。


 カナダ東部オンタリオ州にあるウォータールー大学(University of Waterloo)に入学するのは、センディキアワン・スリアートマジャ(Cendikiawan Suryaatmadja)君。受験課の職員によれば、同校の歴史で最年少の新入生だ。


 報道によると、ディキ君は母国インドネシアで映画を見て英語を学び、飛び級で進学した後、カナダの一流大学であるウォータールー大学への入学を志願した。同大によると物理学を専攻し、数学や化学、経済学の授業も受ける予定だ。  

 カナダ公共放送CBCの取材に応じたディキ君は、「他の新入生に出会って、友達をつくるのを心待ちにしています」と語っている。将来の夢は、学んだことを再生可能エネルギーの分野に生かすこと。カナダではキャンパスの近くで父親とアパート暮らしをする予定で、アイススケートを習得するのが楽しみだという。

 一方、米国でも、ニューヨーク州にあるコーネル大学が今週、12歳のジェレミー・シュラー(Jeremy Shuler)君を新入生として迎え入れる。コーネル大はアイビーリーグ(Ivy League)と呼ばれる米名門私立大8校の一角だ。

 過去100年の大学入学記録を調べると、新入生の「低年齢化」が文字通り進んできていることが分かる。これまでで最年少の大卒者は1984年生まれの米国人マイケル・カーニー(Michael Kearney)さんで、大学の学位をわずか8歳で取得した。カーニーさんはまだ10代のうちに大学で教壇に立っている

情報元:AFP News